202102

いつか、交通事故死年間5000人の「日常」という記事をみた。5000人は加害者被害者がいて、多分多くの人に家族がいる。それぞれ当事者になるまで、そのことの重大さはわからないけれど、いつかそのうちの一人に組み込まれてしまう不条理さ。その記事の遺族の言葉に“まるで交通社会の人柱じゃないか”とあった。5000人が毎年亡くなるのを日常としてる私たち、みんな意識せずとも知らんぷりしている。

 

話は飛ぶようだけど、今騒がれてる流行病だってそのうちみんなが無意識に知らんぷりしていくようになるんだと思う。その境界線ってどこなんだろうってよく考えてる。大学の講義でウィルスについてちょっとだけ学んだけど、いまの状況にはちっとも理由がつかない。今は自粛をっていうけどウィルスが無くなる事はないし、何人死んだら、何年経ったらほかの病気と同じ扱いになるのか。その中で亡くなっていった人も家族からしたらまた人柱のように感じるんだろうか。日常に組み込まれて行った時、去年の1年間で失ったものは不運だったで片付けられてしまうのかもしれない。それってすごく悲しいね、

 

全部を哀れんで同情しよう!みんなかわいそうだよ!ってのは見当違いな文脈で、結局情報で左右されてる部分がすごく大きいんだろうなって。高齢者の交通事故が話題になれば、毎日たくさんの事故が取り上げられて、それがまるで急増しているのかのように感じる。でも実際には今までも同じ頻度で起きてるだろうし、新聞をよく見てみたら今日や昨日も起きてたかもしれない。この変な日常も、知らないうちに忘れ去られていくの、悔しくないですか。そういうのってどうしたらいいんでしょうか。